一握の砂

とっても時間が経過していましたね。

どうも、しぶとく生きています。

確か、3月のアタマには原稿料で病院に行って帰りがけに紅茶を飲んで紅茶を買った。

あとは保湿剤を買ったり、勢いで献血にも行った。

薬が入っていない体だと、私の血液というやつは成分献血に最適らしい。濃いけどサラッとしている栄養満点なやつ。

吸血鬼がいてオークションがあったら、きっと高額にヒートアップするんですねって言おうとして、キチガイな上にメルヘンだと思われたらたまらないのでやめた。

 

初めての献血は、血管が細いから成分を抜き取った後にもう一度針を刺せない可能性を考慮して、結局は400全血をやった。

体重が増えていたことと厚着していった自分に感謝した。

それでも、なかなかうまく血管に当たらなくてぐりぐりっとされまくった。

けど、血液パックは新鮮なレバーみたいで面白かったし、献血ルームではまるで神様になったかのような扱いをしてもらって、面白くないギャグを言っても看護婦さんは笑ってくれたし、血管からパックへと血液が流れていくさまをピース付きで写メってもらうこともできた。

薬を飲んでいない時期と体調がいい時期と体重が足りている時期がマッチするのはなかなかないので、いい経験だったと一言で済ませたい。

 

ところで、私の一番好きな短歌はずばり、コレだ。

『はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る』

なぜ好きなのかと訊かれれば、それはこれを詠んだ石川啄木というやつは、浪費家で定職もなく、そして辛い現実から逃避することにほとんどを費やしていたからだ。

原稿料を握りしめて遊びに行くところなんか、すごく共感できる。

そのくせ、低賃金重労働の人間のシンボルみたいにまつりあげられているところなど、本当に面白いと思う。

だから、同じように定職にもつかず浪費をして現実から逃げて、現状をたまに嘆く人として、好きにならずにはいられなかった。

中でも最後の『ぢっと手を見る』ところが好きだ。

労働者階級の手を想起させるが、啄木自身の手はきっと傷やよごれのない綺麗な手だっただろうと思うと、それも滑稽で面白い。

そりゃ、インク染みくらいはあったと思う。私だってパソコンのない時代にはインク染みまみれだったから、今も手書きの原稿を扱っていればそうだっただろう。

でも、社会主義思想の労働者階級としての『手』とは全く違ったんじゃないか?

俗にいうすべすべの手というやつで、手で人となりがわかるというのはなるほどバカにできないと思う。

そういう背景を含めてこの短歌が好きだ。

ちなみに、最初の出会いはPS2ゲームのラチェット&クランクシリーズのどれかだった。

 

そろそろ原稿料が振り込まれる頃だが、あんまり病院に行こうと言う気持ち(正確には、外に出ようという気持ちだ。コンビニにタバコを買いに行くこともできない。)にはなれない。

そんなことをするくらいなら、ホームセンターで縄を買って鍋でグツグツ煮込んでいる方が、よっぽど良い薬になるような気がする。

そのくせ、紅茶を買い足そうという気持ちにはなるので、これはいよいよ堕落したなという心地である。