(どういうタイトルを付けていいかわかりません)

最近、私のTwitterアカウントのフォロワーの方から、そして読んでいるウェブメディアでもALSのことが頻繁に取り上げられているようにように思います。

長い間いろいろと考え、悩み、試行錯誤してみた結果、自分にとって一番良い消化(昇華)方法はきっと文章にすることだと思うので、誰にともなく書いてみます。

 

私が高校生の頃、父がALSという病気で故人となりました。この病気について少しでも知っている人ならわかると思いますが、実際には私が中学生の時点で発症していたようです。

ALSという診断がごく初期の段階でついたのは、担当医にも「奇跡的であり、非常に良かった」と言わしめたそうです。地方の病院であったので、尚更そうだったのでしょう。これらは、ひとえに父の賢明な模索によるところだったと聞きました。

その頃を思い出してみると「手足に力が入らない」という状態を母に話していたことがありました。そして、その原因が不明とされる中で毎日懸命に筋力トレーニングに励んでいた姿がありました。

 

ですが、母と父との取り決めがあったのでしょう。私達子どもには余命がごくわずかであることやこれからの顛末については、ついに父が亡くなるその瞬間まで頑なに伏せられていました。

父が危篤だと知らされたのは、私がアルバイト先で仕事をしている時でした。血の気の引いた顔でやってきた母が「お父さん、危篤だから、はやく。」と言いました。瞬間、私は涙がどっと出てきて、同時に体中から力が抜けていきました。言葉の意味を理解するのはその後のことでした。

がむしゃらに走って社員の方を見つけたとき「どうした!?顔が真っ青だけど」と言われ、そのときようやく自分が今にも倒れそうなことを自覚しました。歯がガチガチ鳴る音を聞いたのも、そのときが生まれて初めてでした。普段は徹底していた敬語も忘れ、客前であることも忘れて「お父さんが、危篤だと、母が今来て……」というようなことをなんとか伝えることができたようです。ここらへんは私の記憶も曖昧で、後から聞いた話ですが。

そのままなりふり構わず走って行って私は店を飛び出しました。私の血相に仰天する声を聞きつつも、反応することすら惜しく、その節は申し訳なかったなと思います。

バイト先の制服のままで隣県の「難病治療センター」に向かい、ようやくほっとしたのはまだ呼吸をする父の顔を見た時でした。夜通しそわそわしつつも病室にいたとき、心拍を管理する機械のアラーム音がとても恐ろしかったです。

それがよかったのかどうか今でも分かりませんが、朝になると父は意識を取り戻しました。母は「つい昨日まで喋ることもできたのに」と言っていましたが、この日は声を出すことも困難だったようです。私は透明な文字盤を掲げて、父の視線の動きを追って、なんとか伝えたい事を読み取ろうとしました。

「あ つ い」

「い た い」

何度も繰り返し、父が伝えたのはこの二点でした。時折「せ」という文字がありましたが、これは背中のことでした。高熱と横たわったままの姿勢から、背中に熱と痛みがあるということは知識のない私にもよく分かるような、そんな状態でした。

そうなると、私は母や看護婦さんを呼んで、その言葉を伝えました。おろおろしてしまって、自分で手伝うことはなかなかできませんでしたし、痛いと訴える父に触れて苦痛を増やしてしまうのが恐ろしかったからです。

(その時のことを思い出すと、意識を取り戻したばっかりに苦しい思いをしたのではないかと思うことがあります。同時に「家族の姿を見ることができて少しは苦痛が和らいだでしょうし、きっと喜んでいたでしょうね」という看護婦さんの言葉が、私の救いになりました。)

その後、少し熱が下がった父はもう一度眠りました。安定しているうちに、と着の身着のままで不眠不休だった私たちは席を外しました。その間に、目をさます事も無く父はあっけなく旅立って行きました。苦しむことはなかった、という医師の言葉を信じています。

このときのことで夢に何度も出てくるのは、別れ際に父の手を握れなかったことです。いつもはひょうひょうとして明るかった父が苦しむ姿を見て「がんばって」ということもできませんでした。もう十分に頑張っていることが伝わったからです。そんな相手にさらなる頑張りを要求することは、とてもひどいことのように思いました。ただ代わりに「すぐ戻って来るから待っててね」とだけ、半泣きの声で言いました。

(繰り返し、今でも夢に出てくる光景です。臆病なせいで「いたい」と繰り返す父の手を握れなかったことをずっと後悔しています。夢のなかでは父の手を握ることができるのが少しだけ嬉しいです。)

 

病院に到着して、もう動くことのない父の姿を見て、私は人生で一番泣きました。呼吸ができなくなって、看護婦さんに助けてもらうほどでした。母も、そしてまだ小学生だった弟も、あまり大きな声では泣きませんでした。特に、弟の涙を私が奪ってしまったのかも、と今になって強く思います。本来なら、私はもっとしっかりしなくてはいけない場面だったのかも、と思うのです。

 

呆然として涙が枯れないまま、通夜を迎えました。葬儀場の方が「お姉ちゃんだからしっかりしなきゃね」と言って元気づけてくれました。それから、弟と私のことを見て「二人姉弟?」という旨のことを言いました。このときまでなぜか意識していませんでしたが、私にはひとり姉がいます。

姉は、父が危篤という報せがあっても駆けつけませんでした。元々父との折り合いが悪かったことに加え、その日が予備校の模試だったそうです。私にはわからない経緯があったのかもしれませんが、姉は死に目にも会いに来ませんでした。

それで私は何と言っていいかわからなくなって、曖昧な返事しかできませんでした。それは、集まった親戚からされる「一番上のおねえちゃんは?」という質問でも同じことでした。とても居心地が悪い思いをし、何より一番仲の良い相手が傍にいなくて不安でした。

そのうちに母方の祖母(その当時から同居しています)が来て、そのときようやく姉は姿を見せました。姉は平静を貫いたまま焼香だけを簡単に済ませ、また帰って行きました。本心がどうだったかは分かりませんが、泣いてはいない様子でした。

それよりもっとショックだったのは、祖母の言葉でした。祖母は「親より先に死んだから、お父さんは天国にはいけない」と言いました。一番の親不孝だから…というような事も言いました。熱心な仏教徒である祖母からすると、それは当たり前のことだったのかもしれません。ですが、私はとてもショックで、祖母の悪意を感じずにはいられませんでした。以前から一方的に父を嫌っていることは承知でしたし、本人も隠すこと無く「あんな人」呼ばわりして父の悪口を言う人でした。

幼いころから祖母に連れられてお遍路巡りやお寺の集まりに参加していたので、私にも中途半端な知識がありました。「お父さんは天国にはいけない」という言葉が重くのしかかり、携帯で何度も何度もそのことを調べて夜を明かしました。

そのままぼうっとしたままおよそ一ヶ月を過ごし、その間は動物性のものを一切食べずに過ごしました。卵も、バターも、お魚も、お肉も。

何を食べていたのか思い出せませんが、米と豆腐と野菜と漬物を食べていた気がします。

 

以上が、私とALSだった父の話です。

そこから紆余曲折あって今に至ります。

今になって思うのは、誰かが悪いわけじゃないということです。誰も悪人ではありません。

祖母があんなことを言った背景には、ここに書けないような祖母の事情があります。古い田舎の地主家系の双子の弟だった祖父のことや、私からするとひいおばあさんに当たる人からされたこと、そういった事情があるようです。その話は世代を越えて今でも親しくしてくれる、祖父の弟分だった人が飲みの席で話してくれました。もう80近い人から聞いた話ですが。

 

それと同様に、姉には姉の事情があったのだと思います。

家族全員にそういった「人には言わない本心や事情」があるのだと思います。

姉とはその後数年間、同じ屋根の下で無言の関係となり、今では連絡先も知りません。そのまま遠い外国へ行ってしまったので姉の事はわからないままです。私の態度もひどかったし、互いに無視するやり方は幼稚でした。

 

ALSという病気は怖いけど、きっといつかは明るいニュースがあると信じています。遺伝に怯えるのも、私はもうやめます。私はどうなってもいいから、家族にだけは遺伝しないでほしいとは願っていますが。それから、一過性の話題づくりや善人アピールと言われていたとしても、あの寄付活動がALSの研究に大きく貢献したのも忘れません。

 

いつも明るく私の世話を焼いてくれた父が最後に教えてくれたのは、本当に辛い時まで明るく振る舞わなくてもいい、ということだったのかもしれません。

「東京の偉い病院に血をあげた。俺の血はレアなんだぞ。」などと、病気が進行してからも冗談を言っていました。運転ができた頃は、朝が弱い私をしょっちゅう学校に送ってくれて、他愛もない話をしました。

入院生活になる前は夜な夜ないっしょに父の得意料理を作って食べては、いっしょに母に怒られました。包帯の巻き方、関節に絆創膏を貼っても剥がれにくい方法、毒やアレルギー物質のある虫のこと、それから家事のことなど私に必要なことを教えてくれました。

ずうっと昔にもらった絵本や、コアな図鑑を大事に持っていて、寂しい時はそれを開きます。

父が枕に使ったりしつつもベッドにおいて可愛がっていたスヌーピーも、違う子ではありますが、私のベッドに寝ています。そして、独特の、同じ発音で「スヌーピー」と呼んでいます。(こっそり見たら母のベッドにもいたので、そういうことなんだと思います。)

だけど、元気に会話をした最後のお見舞いのときに言ってくれた「髪がきれいに伸びたなあ。似合ってる。」が忘れられず、今でも長い髪のままの私がいます。

(昔から、そして今でも、「うっとうしいから短くしなさい」と祖母に言われ続けていた長い髪を、自信を持って「これがいい」と言えるのは、紛れも無く父のお陰です。)

 

そういったことが今の私を形作っているんではないかと、そう思っています。そして、父のようなひとになることを目指しています。

いつか嫌々ではなく髪を切れる日が来るでしょう。

長く散らかった文章にお付き合いいただいた方がいらっしゃれば、オチのない話ですみません。そしてありがとうございました。